深淵の闇の中に、漆黒の衣服を身にまとった男がいる。黒い髪に黒い瞳を持つその人は揺らめくランプの炎を見つめていた。
いや、正確に言うと見えてはいないのだが、彼の脳裏には仄かなその光が確かに映し出されている。 彼の黒玻璃の瞳は、生まれつき光を持たない。 けれど、持って生まれた司祭に匹敵するその『力』が、あらゆる物を見ることを可能にしていた。 目の前にあるランプの炎はもちろんのこと、この部屋に置かれた調度品の配置もはっきり見えている。無論その力は戦場でもいかんなく発揮され、幾度となく混戦を勝利へと導いてきた。 その不思議な能力で味方からは神格視され敵からは恐怖の対象となっている彼の名は、ロンドベルト・トーループ。『不敗の軍神』『黒衣の死神』などという二つ名を持つ彼はだが、今は少々というよりかなり不機嫌だった。 なぜなら戦から首都へ無事帰還し軍本部へ戦況の報告に訪れるなり、明確な理由の説明もなく軟禁に近い状況に置かれてしまったからである。 静けさの中、扉を叩く音が響く。 入れ、との声に応じて室内に入ってきたのは、まだ年若い女性だった。 彼と同様、黒衣に身を包んだ女性の名は、ヘラ・スンといい、ロンベルトの右腕と言っても良い存在で数少ない彼の腹心の部下である。その手には、一枚の紙が握られていた。 「騒ぎの原因は、解ったかな?」 彼がここに押し込められる少し前から、首都にはいつになく騒がしい空気が流れていた。彼は帰還するなりそれを感じ取り、副官であるこのヘラに軟禁される直前、密かに調査を命じていたのである。 危機的状況であるにもかかわらずどこか面白がっているようなその声に、女性は呆れたような表情を浮かべつつも一つうなずいた。 「どうやら街に、敵国の密偵が潜り込んでいたようです。……捕縛された一人は残念ながら尋問中に自死したのですが、こんな物を」 差し出されたそれを手に取ると、彼はわずかに目を細める。 同時に、鮮明な画像が彼の脳裏に広おびえたような表情で、息子は私の顔を見つめていた。 寝台に横たわる私の身体は、いつしか骨と皮だけになり、顔色もどす黒くなっていたからだろう。。 無理もない。私は息子を守ると決めたあの時から飲めぬ酒を飲み続け、不健康な生活を送り続けていたのだから。 悲鳴を上げ続けていた身体が、ついに限界を迎えたというわけだ。「……来たか?」 力無く私は息子に笑いかけた。 囁くような声だったにもかかわらず、息子はうなずきわずかに後ずさる。「御用とは、何でしょう……」 消え入りそうな声で言う息子に、私は胸元から小さな包を取り出し、差し出した。 ゆっくりとこちらへ歩み寄り、それを両手で押し頂く息子に、私は開けてみろ、と視線でうながした。 息子は震える指先で包を解き、中から出てきた見慣れぬ指輪に首をかしげる。「……良く見てみるがいい。それがお前の正しい素性だ」 その言葉に、息子は注意深く指輪を眺める。 そこにルウツ皇帝の紋章が刻印されていることに気づき、さらにその色が不自然に黒ずんでいることに、息子は驚いたように私を見つめてきた。 これは、皇帝しか手にできぬもの。それがこのように色を変えているということは、すなわち皇帝に毒が盛られていた証……。「今となっては、それが唯一の証拠だ。……時が来るまで、誰にも見せてはならぬ」その言葉を受け、息子は包を握りしめ激しく首を左右に降りながら叫んだ。「何を……おっしゃることの意味が、わかりません!」 いつしか息子の頬は涙で濡れていた。 この時を逃しては、真実を告げることができない。 私は力を振り絞って告げた。「お前は、私の子ではない」 息子の指輪を持つ手は、それと見てわかるくらい震えている。 一
皇帝崩御の報せをうけ、私は迷った末に息子を皇宮へと連れて行くことを決めた。 それは、皇后や皇女達と息子を対面させると同時に、多くの貴族の前に息子をさらすという危険な行為でもあった。 けれど、ひと目だけでも息子を本当の父親に会わせてやりたいという気持ちが勝ったのだ。 皇宮で行われる葬儀にまつわる儀式に参列するために、子ども時代の私のために誂えられた礼服をまとった息子を前にして、さすがに私は息をのんだ。 その姿は、いつも以上に幼い頃の兄にそっくりだったからである。 一瞬、私は迷った。やはり、連れて行かないほうが良いのではないか、と。 息子を守り通すためには、やはりこの屋敷から出さないほうがよいのではないか。 その時、息子と目があった。 一体これからどうなるのだろうとでも言うような不安げな視線を向けられて、私は決意した。 やはり兄に会わせてやるべきだ、と。 ※ 皇宮の大広間に着くなり、その場に集う貴族達の視線が私……いや、息子に集中しているのを感じた。 無理もない、私が息子の存在を大っぴらにしていなかったというのもあるが、前触れもなく亡き皇帝と瓜ふたつの少年が私とともに現れたのだから。 私達を認めた侍従長は一瞬その目を見開いたが、すぐに何事もなかったかのように私達を皇帝のもとへと案内してくれた。 棺が安置されていたのは、皇宮内の礼拝堂だった。 中央には、皇帝の棺。その後ろに皇后と皇女姉妹が控えていた。 あの嫉妬深く心の醜い皇后もさすがに泣きはらした目をしており、打ちひしがれたような表情をしていた。 皇女姉妹に視線を移すと、妹姫の方は必死に涙をこらえているように見えたが、世継ぎの姉姫はそういった様子もなく、一番落ち着きはらっていた。 成年の儀を終えてまださして日も経っていないにも関わらず、だ。 その様子に、私はふとあることを思い立った。 兄の崩御を聞いたとき、皇后と宰相が結託して兄を殺したと考えていたのだ。 しかし、この皇后の悲しみ様を見ると、どうやらそうでもな
皇帝に二人目の姫君が生まれ、国内は祝賀の雰囲気に包まれた。 名だたる貴族たちはこぞって祝意を告げるべく皇宮へと向かったが、私は一人屋敷で酒をあおっていた。 隣の部屋からは、息子がたどたどしく乳母やその娘と話しているのが聞こえてくる。 最近、息子は唯一の友人と言っても良い乳母の娘と共に、執事から簡単な読み書きと計算を習っているらしい。 本来ならばそろそろ専属の教育係を付けるべきなのだろうが、私は敢えてそれをしなかった。 実子に無関心な愚かな父親を装うため、そしてあわよくば世間からあの子の存在を忘れさせるためだった。 息子にはこのまま権力争いに巻き込まれることなく、この屋敷で安らかな生涯を終えてほしい、そう思っていたのだ。 だがある時、私は執事からこんなことを言われた。「ご子息は大変聡明であらせられます。このままでは、あまりに不憫でなりません。それに……」 ここから先は言ってはならない、そう思ったのだろうか。 執事は突然口を閉ざす。 付き合いも長く、彼に全幅の信頼をよせている私は、発言を許可した。 執事は腰を直角に折った姿勢で、恐れながら、と切り出した。「失礼いたしました。わたくしめが心配しているのは、閣下亡き後のことでございます。閣下の庇護を受けている間はまだしも、お一人で生きていかねばならなくなった時、ご子息は自らのお命をご自身で守らねばなりません」 たしかにそのとおりだ。 私の存命中はこの愚かしい演技であの子を守ることができるだろう。 しかし、私が死んだあとはそうはいかない。 世間知らずな息子はその無学ゆえ、反皇帝派に担がれ反乱の旗印にさせられてしまうかもしれない。 そうなれば、結果は火を見るよりも明らかだ。 さて、どうするか。 それが運命と言ってしまえばそれまでだが、それでは結局息子を護ることにはならない。 だからといって、今から息子に英才教育を始めれば、それはそれであの皇后に目を付けられる可能性もいなめない
その日から、私は変わった。しかも、人として悪い方に。 日に何度も、演者の有名無名に関わらず、演劇や音楽の公演に通いつめるた。 そればかりではなく、何人もの売れない芸術家の後援者(パトロン)となり、金をそれこそ惜しげもなくつぎ込んだ。 そして、屋敷にいるときには昼夜を問わず酒をあおり、昼夜が逆転するような生活を送った。 議席を有していた御前議会には、何かと理由をつけ三度に一度は欠席をするようになり、そのうちめっきり足が遠のき、いつしかまったく出席しなくなった。 さすがに私の突然の変化を奇妙に思ったのだろう、ある日兄たる皇帝は近侍を伴うこともなくただ一人、お忍びで私の屋敷を訪れた。 これはおそらく、急激に変化した私の真意を包み隠さず話してほしいと思ったからなのだろう。 屋敷に迎え入れられた皇帝は、私の顔を見るなり声を荒らげこう言った。──一体、どういうつもりだ、と。 そこで、私はなんの説明もせず、皇帝を息子の部屋へと連れて行った。 訳もわからず息子の部屋にやってきた皇帝に、私は寝台を指し示す。 赤子用の小さな寝台の中にいるその子を見て、皇帝が息をのむのがわかった。 それほどまでに、私の『息子』として育てられている男児は、皇帝にそれこそ瓜ふたつだったのである。 寝台の柵を握りしめ、ようやく立っているような状態の兄に、私は静かに告げた。「私は、彼女……妻と約束したのです。その子を命にかえても守る、と」 私の声は、さほど大きくはなかった。 しかし、皇帝は心底驚いたように振り返り私の顔を見る。 無理もない、我が妻は元々兄の寵愛を受けた人で、兄からすれば体よく押し付けたという意識があったのだろうから。 その視線から逃れるように目を伏せると、私は更に続けた。「恐れながら、私があなたと血をわけた弟である以上、私が今までのように振る舞えば、私もこの子もいずれいわれなき罪を着せられて、抹殺されてしまうでしょう」 誰に、とはあえて口にはしなかったが
妻は禁忌とされている自害をしたので、本来であれば正式な葬儀を執り行うことはできない。 だが、それでは色々と良からぬ噂が立つであろうから、その点は不本意ながら兄たる皇帝の力を借りて隠蔽した。 公爵夫人のものとしてはあまりにも簡素な葬儀が執り行われた後、私が最初にしたことは妻の親戚筋の一家を住み込みの家人として取り立てることだった。 というのも、この一家は元々男爵の位を有していたのだが、先代の当主が投資に失敗し無一文に近い状態となり、領地と爵位を売ってしまったのだという。 そんな一家に妻は侍女として皇后に仕え始めてからずっと仕送りを続けていたらしい。 ちょうど私も第二皇子の身分から公爵として独立し、皇宮を出て屋敷を構えていたので、それなりの人手を必要としていたということもある。 なので、万一気にさわらなければお願いできないかと申し出たところ、先方からはすぐに快諾する旨の返答があった。 私とかつて私の守役を勤めていた執事、そして数人の料理人と私の乳母だった女性しかいなかった屋敷は、一気に賑やかになり、明るい雰囲気に包まれた。 その一方で母親を喪った息子は、日々成長していった。 巻き毛の赤茶色の髪に、青緑色の瞳。 何も知らない家人達は、本当に私そっくりのかわいらしいご令息だと、褒めそやし目を細めたが、私の見立ては違った。 細かい顔の造形は、当然のことながら本当の父親である兄……皇帝に似ていた。 妻と皇帝との仲を薄々ながら感じ取っていた皇后の目に留まれば一体どうなるかは、火を見るよりも明らかだ。 皇帝の命令であるからというのもあるが、妻との約束を果たすためにも、この子の命を皇后から護らねばならない。 果たしてどうすればいいのか。 日夜悩んだ結果、私はある残酷とも言える決断を下した。 この子は、一生この屋敷からは出さない。 家人以外の目には触れさせない。 人目に触れなければ、この子が皇帝に似ていると知るものはいない。 安直ではあるが、これが最良の策だと私は思った。 何も知らず寝台の上で安らかな寝息を立て
元々私の妻という人は、兄である皇帝の手がついた女性で、長らく皇后の侍女をしていた人だった。 妻が仕えていた皇后は大変美しい容姿をしていたが、欲深く嫉妬深い、一言で言ってしまえば心はこの上なく醜い人だった。 対して私の妻となった女性は、容姿こそ十人並みだったが心は大変美しい人だった。 皇帝はおそらく彼女の人柄に惹かれ、結果皇后の目から逃れて逢瀬を重ねていたのだろう。 だが、ささやかな幸せな時間は長くは続かず、ついに皇后の知るところとなってしまった。──このままでは最愛の人の生命が危うい。 そう考えたのだろうか、皇帝は青い顔をして私に相談してきたのである。 清廉な皇帝と言われている兄も、やはり人の子だったのか、と私は妙に納得した。 まず私は、その侍女を正式に寵姫にしてはどうか、と提案した。 だが、皇帝は首を縦には振らなかった。 無理もない、皇后は長らくこの国の実権を握っている宰相に連なる家柄の出身だったからだ。 そして、人一倍嫉妬深い皇后は、自分以外に皇帝の寵愛を受ける存在を許すとは到底思えなかった。 さてどうするか。 次の提案を考えている私に、皇帝はおもむろにこんなことを口にした。 どうか、この侍女をお前の妻にしてはくれないか、と。 ひと度自分の手から離れれば、皇后もよもや良からぬ気を起こすことはないだろう、そう言うのである。 私は深々とため息をついた。 これはもはや、相談ではなく命令である。無論私に拒否権はなかった。 最初から皇帝は、最愛の人を唯一の肉親である私に託すつもりだったのだ。 考えること、しばし。 私は深々と頭を下げ、皇帝に向かいこう言った。「賜りました。ですが、その代わり一つだけ私の願いを叶えていただけますでしょうか?」 何事かと首を傾げる皇帝の目を、私は真っ直ぐに見据えた。「今現在、私には皇位継承権がございます。ですが今後陛下にお世継ぎがお生まれになれば、皇后陛下の憎しみ